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第三章 遠吠えは闇に木霊する
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 帰国してから半年以上の月日が流れた。手にした小銭で手すりを打ち鳴らして降車の意図をバスの運転手に伝えたり、時間通りに運行しない列車に腹を立てたりすることはもうなくなった。たまの外食と残りのほとんどを自炊という日常に単調さを覚える一方で、毎日のように屋台で食べていたナマズの白身とサンバルには懐かしさばかりかヨダレまで溢れる。ランドセルに埋もれて家の前を歩く子供たちの礼儀正しさにはいちいち感心し、インドネシアの小僧どもの甘やかされっぷりは思い出すだけでも腹が立つ。時間や約束を守らぬ人には厳しく、お金はなくとも豊かな暮らしを送る人には頭が下がる。バイクの方向指示器代わりにヒラヒラさせていた手がカッチ・カッチと音を立てる車のウィンカーに代わり、夜空を仰げば一年中輝いていたオリオン座が四季を彩る別の星座に変わってしまっても、取り巻く自然の豊かさや人々の優しさにそう変わりはない。雲が崩れ、雷鳴が轟き、豪雨となる。そして幾ばくもなくまた空が晴れる。強い風だけを置き去りにして。ゲリラ豪雨に東南アジアのスコールを重ね、流れいく雲の行き場を思う。嗚呼…、9年という月日は決して短くなかった。
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 通り掛ったイスラム寺院の前には人だかりが出来ている。少し遠巻きに眺める人々の視線の先には一匹の山羊。寄り添うようにして立つ男は、もがく山羊を押さえつけると、地面に穿たれた穴の上にその首を差し出す。刃物が首筋に突きたてられる。その一部始終を恐々と、けれども熱っぽく見詰める男の子がいる。奇妙な方向に首を傾げた山羊が力なく引きずられていく。地面には絵の具をこぼしたような鮮やかな赤が残る。しかしそれも次第に黒ずんでいく。寺院の前には頭のない山羊が既に数匹吊るされている。まだ精気を失っていない、どこかねっとりとした生温かい臭いが辺りに漂っている。それは屠られた動物が最後に放つ、生きていたことの証だ。

 預言者イブラヒムは息子イスマイルを唯一神アッラーに生贄として捧げることを決意する。イスマイルもそれが神託であることを知ると、進んで自らの運命を受け入れる。自分の息子を手に掛けようとしたまさにその時、イブラヒムは新たな神託を得る。「お前の息子の代わりにその山羊を殺すように」との。二人の揺るぎない信仰を前に、神がイスマイルの代わりとなる山羊を与えてくれたのだ。イドゥル・アドハとはこの話に由来するイスラムの犠牲祭で、毎年イスラム暦の12月10日に催される。
 冷やかな空気があたりを覆っている。昨日うんざりするほどの雨を落とした雲は、その背を遠く西の空に残して棚引いている。北にあるムラピ山は雲の編笠を被っていて山の頂は見えない。中腹から麓にかけての地形の入り組んだ濃い緑の合間には、霧なのか靄なのか深く立ち込めるところがあって、その濃い白はいつか見た残雪を思わせる。人の居ぬ間を突いて収穫前の稲を啄ばみにやってきたスズメたちは、屋根の上でチェンチェンと騒がしくやっている。それとは違う柔らかで優雅な鳥の鳴き声が隣の中庭から聞こえてくる。二件先に住む童子が死に物狂いでグズル声は、そんな鳥の声の一つに似ていなくもない。鈴虫の音が一定のリズムを刻む。まだ冷たい水をバシャンバシャンと勢いよく浴びる音が高い塀を越えて響きわたる。井戸水を汲み上げるモーターが近くで唸っている。東の方で犬も唸っている。前の小道を足早にいく幾つかの小さな足音が聞こえる。立ち話に熱の入る人々の高らかな声は眠たい頭には疎ましい。田んぼの向こうの林の先、ここからは見えない南へと下る道路を激しく行き交う車やバイクは、地響きにも似た低い音を地表近くに置き去りにする。眩しい太陽の光が徐々に高いところから差し込む。もうじき朝も一段落つく。
 風が吹く。それまで滞っていた生暖かい空気がにわかに動きだすと、涼しげな風がどこからともなくやって来る。すっと気温が下がる。田んぼの畦に生えた椰子や道に沿って植えられたバナナが揺れながら、しゃらしゃらと葉を鳴らす。風で散ったアデニウムの葉は辺りの落ち葉と一緒になって、乾いた音を立てながら地面を転がる。枝に残された桜色の花はどこか寂しげに映る。低く垂れ込めた暗い雲は幾重にも連なり、水平に広がっては空を覆っていく。東から西へと流れる雲は時折、くぐもった雷鳴を轟かせながら先を急ぐ。その灰色を背に空高く舞う数羽の雁の白が見える。刈り取ったばかりの稲束を背負い、家路を急ぐ者がいる。濡れまいと猛然とバイクを駆る人の姿がある。遠くにある真黒い雲の塊が形を失いながら空と大地とを結び、雨の柱を作る。次第に激しい雨音が近づいてくる。ぽつりぽつりと流れ弾が飛んでくる。もうすぐここにも雨が来る。
ブルーカラー

 舞い上がる砂埃を吸ってすっかり灰褐色になった肌は、どんなに強い日差しを受けても決して輝かない。井戸から水をくみ上げ、砂を振るい、セメントをかき混ぜる。コンクリートブロックが積み上げられる度に少しずつ形をなしていく建物の姿に感慨はない。細身の体に無駄なく付いた筋肉、傍から見れば羨ましいほど均整の取れた体もこの労働ゆえだ。ほかに日銭を稼ぐ手段もなく、自らの思い通りになる唯一の資本だけを頼りにひたすら働く。炎天下で黙々と進められる作業の中、つるべを満たす水の重さに浮き上がる力瘤だけが静かにものを語る。


ホワイトカラー

 パリッとした長袖のシャツに覆われた肌は、通勤時の日焼けや冷たすぎる空調の風から守られながらその白さを維持する。新聞を読み耽り、同僚としゃべり、携帯電話をしきりにいじる。目の前に積み上げられた書類の束を横目で捉えながらも、手を着けようとは決してしない。小奇麗な着こなしに知的なアイテム、一目で事務労働と分かる井出達は自分たちが中産階級以上に属すことをさり気なく誇示する心憎い演出だ。難しい顔をして睨むパソコンのモニターにトランプゲームの画面が映し出される中、カチカチと優雅に奏でられるマウスの音もオフィスに響く談笑にかき消される。


ブラウンカラー

 にじみ出る汗でテラテラと光る褐色の肌は、他を圧倒するかのように隆起した筋肉をいっそう際立たせながら不気味な輝きを放つ。バーベルを胸元まで引き寄せ、エキスパンダーで体を伸ばし、スクワットを繰り返す。筋肉の厚みが増す度に高められる肉体美に思わず自らうっとりする。頭部に比べて肥大化しすぎた腕や胸周り、傍から見てもすぐにバランスを失っていると知れるその体こそが日頃のトレーニングの賜物だ。恵まれた家庭のお陰で労働意欲など持たず、自尊心を満たすためだけにマッチョクラブに通ってお金を費やす。エアコンの効いた快適な室内での修練の中、トレーニング器具の発する冷たい金属音だけが忙しなく鳴り響く。
 冷ややかな空気が低く身を纏う。蒼い闇はうっすらと白みを帯び、静寂の支配は終わりを告げる。遠くで往来の響きが聞こえてくれば、時は再び人の手へと委ねられる。裏の木立からは山鳩の声がゆるやかにくぐもり、シャラシャラと流れる水の音は、夜の内こそ空恐ろしくも聞こえるが、徐々に色彩を取り戻す世界の中で元の小川のせせらぎへと姿を変えていく。砂利の上を行く幾つかの足音とそれに続くやしろの鈴の音はどこか控え目で澄んでいる。心地よい余韻だけを置き去りにして、あたりはもう一度静けさに包まれる。
 アジの干物であろうか、次の目覚めは芳ばしい匂いと共に、焼き網を焦がしてジュウジュウと滴る油が狭い台所を白く煙らせる。仏前でお祈りを済ませると、大方整った朝食仕度に今更ながら加わる。立ったり座ったりが辛い祖母の事だから、代わりに卓袱台に茶碗を運んで食膳に着く。年を追うごとに小さくなっていく祖母の姿から目をそらすように、湯呑み茶碗に視線を落とす。そこには茶柱だらけの渋くて熱いお茶が注がれている。それを一口すすってから、ここでの食卓に欠かすことのない甘すぎる厚焼卵を口へと運ぶ。はじめこそ干物や漬物の持つ塩気とのバランスを考えた上での味付けかとも思ったが、実は単なる好みの問題であるらしい。祖母によればこの甘すぎる厚焼卵こそが長生きの秘訣らしく、そうと知ってしまうと味付けにとやかく口を出すわけにはいかない。茶請けのように甘すぎる厚焼卵を一切れまた一切れと口に入れるたびに、ちょうど飲み頃になったお茶へと自然に手が伸びる。向かいに座る祖母の顔はすっかり皺くちゃで、けれども、そうあることがとても誇らしげに見えて、どこまでも優しく美しかった。からになった湯呑み茶碗には渋くて熱いお茶が注ぎ足され、ついつい甘すぎる厚焼卵へと再び箸が向かう。
 数あるバリの芸能の中でも一際有名なケチャは、その名前がヤモリ (Cecak) の鳴き声に由来すると説明されるのが一般的だ。実際のところチャッ、チャッと鳴くヤモリは、バリやジャワにおいて幸運をもたらす生き物として広く信じられてきた。そのヤモリの霊妙なる力にあやかって、その鳴き声に似せた詠唱を作り出すことで、村やそこに住む人々に幸運がもたらされる事を願ったのがケチャの始まりだったのかもしれない。
 ケチャの名前について変わったところではマハーバーラタに登場するウィロト国の大臣キチャカに由来するというものがある。国王から寵愛され、その信頼暑く、国民からも熱烈な支持を得ていた大臣キチャカは、戦地で勝利を収めて帰国をする度に国中から大変な歓迎を受ける。凱旋中、口々に連呼される彼の名前キチャカ、キチャカ、キチャカ。やがてそれはチャッ、チャッ、チャッと唱和になって…。大叙事詩の後ろ盾があればこそのロマンである。
 毎年6月を迎える頃には「今年は例年に比べて乾季の入りが遅かった」と、抜けるような青空を見上げながら人々は口を揃えるのだが、今年の雨は一向にやむ事を知らない。地球規模で進む温暖化やフェーン現象の影響で乾季の入りが不規則になったと叫ばれるようになって久しいが、その実、5月を終える頃には必ずと言って良いほど清々しい晴天が湿度の低い軽やかな風を伴ってやってくるのが常である。それなのに今年は7月に入って幾日も過ぎようというのに、普段であれば乾いて地面がむき出しの田圃にはうっすらと水が張り、そこからは盛大な蛙の合唱すら聞こえてくる。気象庁によれば、ここしばらくは大雨や暴風雨、霰や雹への警戒が必要だそうで、しかも乾季を迎えていない今の内から雨季の前倒しさえ告げられている。あらゆるものが色濃く、鮮やかに、くっきりとして目に映る乾季の空気を待ち侘びながら、今日もまた暗雲の下、いつもより早く点いた街灯は、強い横風に揺れるバナナの木より少しだけ振り幅狭く右左し、大粒の雨は乾く間も与えず再び大地を濡らしている。
 太宰治の「富嶽百景」の中でも指摘されるように、実際の富士の姿というものは「鈍角も鈍角、のろくさと拡がり」、決して北斎や広重が描くような「秀抜の、すらと高い山」ではない。その点、中部ジャワにそびえるムラピ山こそは、かの浮世絵に現れる富士の姿そのものであって、太宰風に言うならば、「なだらかにひろがつてゐる裾の割にその峰急峻で、雲付くやうに尖つたいただきは、見る者の素朴な、純粋の、うつろな心へも訴へ得る」のである。そう思えば、富士のことを駿河ムラピだとか、甲州ムラピだと呼ぶのならまだ話は分かろうものを、ムラピをジャワ富士などと言うのは甚だ手前味噌な話ではなかろうか。
 久しぶりに帰宅した実家では父がいつものように座椅子に腰掛け、テレビの前で根を生やしている。かつて学生であった私たち兄弟を差し置いて誰よりも勉強熱心であった彼も、今では本を手にすることはほとんどなく、日がな一日半径50センチほどのその小さな空間に吹き溜る。長年の勤めから解放された彼に許されたその時間を無碍に否定する気はないが、その姿に一抹の侘しさを感じるのもまた事実である。それは老いることで薄れいく好奇心や向学心への恐れからなのか、それともいつの日か老いた自分の姿を、にじみ出る寂しさや孤独感をそこに重ね見るからであろうか。
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